おじさんマジック記5
2020年8月13日 Magic: The Gatheringおじさんマジック記4
https://mtgkuma.diarynote.jp/202008121356091171/
からのつづき
カードを失い、プレリ参加のためにお小遣いも使い切った俺は本当に抜け殻になっていた。カードは無いものの家にはゲームぎゃざがあり、目に入るたびに思い返してはイライラしていた。ゲームぎゃざは捨てた。
しばらくして、学校で島木が「カード少しやるよ。また集めようよ。」と言ってくれた。島木ありがとう。きっとお前がいなければマジックは続けていなかっただろうな。
ショックを受ける俺を見て普段は小遣いを渋る親だったが、この時ばかりは1000円くれた。その後も祖母のご機嫌をとっては小遣いをもらいカードを買いまくっていた。日向市のアリーナリーグにも2度ほど参加した。ショックから立ち直りマジックに完全にのめりこんだ。
さて、高校受験も終わり島木と同じ高校でマジックができるなと思っていた入学前の春休み。母親が「転勤になったから、引っ越しね。」と言ってきた。「島木とマジックでできなくなる…。高校は合格していたのでどうなるんだろう。」と不安が渦巻き、新しい職場まで通えないかと頼んだが「運転嫌いだから長距離通勤したくない」言われ交渉はゲームセット。冴えない系の俺は友人作りの不安も抱えながら引っ越すこととなった。ただ、引っ越しにも一筋の光があった。それは引っ越し先が例のおもちゃ屋のある日向市だったのだ。
島木に「引っ越してもたまには遊ぼう。日向で大会とかあるときは教えるから参加しよう。」と別れを告げ、引っ越しをした。
2001年 春。入学式前の編入という謎の高校進学をすると勉強と部活で大忙しだった。マジックを支える例のおもちゃ屋さんに行ってカードを買うことはあっても、大会自体は行われず、対戦できない状況が続いた。島木と予定を合わせて会うこともあったが、車で40分、電車で50分の距離でお互いに部活もしていたので3回ほどで会わなくなった。
ある日ゲームぎゃざを見ていると日向で開催された大会結果が載っていた。それもおもちゃ屋主催ではなく、個人主催で。どうやって連絡取って参加するんだろうと悩んでいたが、インターネットで調べられないかと思った。ちょうどその時期、IT革命だか何だかで、「インターネットを使えるようになろう!」という風潮があり、駅前のおじいちゃん用の休憩所にインターネット体験コーナーが設置してあった。あまり広くない休憩所にマッサージチェアが3台と30分しか使えないパソコンが2台。そこを活用して大会の情報を調べた。するとビンゴ。大会の情報を得ることができた。インターネットって便利だなと実感したときであった。報償プログラムへの登録もこの体験コーナーで行った。高校時代のすべてのマジック情報はおじいちゃんたちの休憩所で得ていた。高1の時に携帯電話を買ってもらったが、当時はパソコン用とiモード用のサイトは区分けされており、多くの情報は携帯では得られなかったからだ。
いよいよ部活を休んで大会に参加することとなった。久しぶりの公認大会。しかも今回は一人きりでの参加となる。荷物に最新の注意を払っていざ会場へ。会場は近くの文化センターの和室。ほんわかした空間が広がっていた。主催者の方に挨拶をし、参加費を払って大会へ。シングルエリミでさくっと負けたが、久しぶりの対戦で充実した気持ちになった。さらにこの方は北京語版を個人輸入しており、自信のHPや大会会場で販売していた。お金がない自分としては通販せずに(送料がかからずに)シングルカードが買えるので北京語版とはいえ、すごく助かった。主催者の方はめちゃめちゃボックスを仕入れて自分で剥いて販売していたので、お金持ちなんだなー思った記憶がある。最初は絵を見てカードを覚えていたが次第に北京語が読めるようになりドラフトもした。さらにマジックにのめり込んでいくことになった。
つづく
https://mtgkuma.diarynote.jp/202008121356091171/
からのつづき
カードを失い、プレリ参加のためにお小遣いも使い切った俺は本当に抜け殻になっていた。カードは無いものの家にはゲームぎゃざがあり、目に入るたびに思い返してはイライラしていた。ゲームぎゃざは捨てた。
しばらくして、学校で島木が「カード少しやるよ。また集めようよ。」と言ってくれた。島木ありがとう。きっとお前がいなければマジックは続けていなかっただろうな。
ショックを受ける俺を見て普段は小遣いを渋る親だったが、この時ばかりは1000円くれた。その後も祖母のご機嫌をとっては小遣いをもらいカードを買いまくっていた。日向市のアリーナリーグにも2度ほど参加した。ショックから立ち直りマジックに完全にのめりこんだ。
さて、高校受験も終わり島木と同じ高校でマジックができるなと思っていた入学前の春休み。母親が「転勤になったから、引っ越しね。」と言ってきた。「島木とマジックでできなくなる…。高校は合格していたのでどうなるんだろう。」と不安が渦巻き、新しい職場まで通えないかと頼んだが「運転嫌いだから長距離通勤したくない」言われ交渉はゲームセット。冴えない系の俺は友人作りの不安も抱えながら引っ越すこととなった。ただ、引っ越しにも一筋の光があった。それは引っ越し先が例のおもちゃ屋のある日向市だったのだ。
島木に「引っ越してもたまには遊ぼう。日向で大会とかあるときは教えるから参加しよう。」と別れを告げ、引っ越しをした。
2001年 春。入学式前の編入という謎の高校進学をすると勉強と部活で大忙しだった。マジックを支える例のおもちゃ屋さんに行ってカードを買うことはあっても、大会自体は行われず、対戦できない状況が続いた。島木と予定を合わせて会うこともあったが、車で40分、電車で50分の距離でお互いに部活もしていたので3回ほどで会わなくなった。
ある日ゲームぎゃざを見ていると日向で開催された大会結果が載っていた。それもおもちゃ屋主催ではなく、個人主催で。どうやって連絡取って参加するんだろうと悩んでいたが、インターネットで調べられないかと思った。ちょうどその時期、IT革命だか何だかで、「インターネットを使えるようになろう!」という風潮があり、駅前のおじいちゃん用の休憩所にインターネット体験コーナーが設置してあった。あまり広くない休憩所にマッサージチェアが3台と30分しか使えないパソコンが2台。そこを活用して大会の情報を調べた。するとビンゴ。大会の情報を得ることができた。インターネットって便利だなと実感したときであった。報償プログラムへの登録もこの体験コーナーで行った。高校時代のすべてのマジック情報はおじいちゃんたちの休憩所で得ていた。高1の時に携帯電話を買ってもらったが、当時はパソコン用とiモード用のサイトは区分けされており、多くの情報は携帯では得られなかったからだ。
いよいよ部活を休んで大会に参加することとなった。久しぶりの公認大会。しかも今回は一人きりでの参加となる。荷物に最新の注意を払っていざ会場へ。会場は近くの文化センターの和室。ほんわかした空間が広がっていた。主催者の方に挨拶をし、参加費を払って大会へ。シングルエリミでさくっと負けたが、久しぶりの対戦で充実した気持ちになった。さらにこの方は北京語版を個人輸入しており、自信のHPや大会会場で販売していた。お金がない自分としては通販せずに(送料がかからずに)シングルカードが買えるので北京語版とはいえ、すごく助かった。主催者の方はめちゃめちゃボックスを仕入れて自分で剥いて販売していたので、お金持ちなんだなー思った記憶がある。最初は絵を見てカードを覚えていたが次第に北京語が読めるようになりドラフトもした。さらにマジックにのめり込んでいくことになった。
つづく
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